私の戦争体験「トラック島で見た地獄」

終戦70年特別企画
出征現場、徴兵検査――75年前の発掘写真を前に語り尽くす
俳人・金子兜太(95歳)
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京都市内で撮影された出征現場。日章旗を持った見送りの人々に向け壇上の若者が決意の言葉を述べている
 敗戦から70年。講談社倉庫の奥に、大量のモノクロ写真が眠っていた。太平洋戦争開戦直前の、昭和15年(1940年)ごろの市民の姿をとらえたものだ。
「これは出征の風景ですね。なかなかお目にかかれない写真ですよ。写っている人々はどこか牧歌的ですね。ふっくらしていて、服装にも余裕がある。開戦前は戦争をやると聞いても、戦地は日本以外の外国だと思い込んでいた。3年8ヵ月で本土が焼け野原となり、300万もの命が犠牲になることなど、誰も想像していなかったのです」
 そう語るのは俳人の金子兜太(とうた)氏(95)。
 太平洋戦争の開戦時は東京帝国大学経済学部の学生だったが、2年半弱で大学を繰り上げ卒業。海軍経理学校を経て、昭和19年3月、グアムの南西約1000㎞沖に浮かぶトラック島の第四海軍施設部に主計中尉として赴任した――。
 私も含め、当時の学生の7割はアメリカに勝てるとは思っていませんでした。昭和17年6月のミッドウェー海戦の惨敗で戦局は劣勢に転じていたし、私も飛行艇から降りてトラック島の土を踏んだ瞬間、これはダメだと直感しました。半月前に2日間にわたる爆撃を受け、目の前は真っ黒に焼け焦げた残骸だらけ。南方のラバウルに送るはずだったゼロ戦が200機近くやられ、海には撃沈された輸送船がいくつも転覆していたのです。
 それでも、私はどこか楽天的でした。自分が赴任した以上、何とか状況を覆し立て直しをはかりたいと本気で思っていたのです。というのも……私は埼玉・秩父出身なんですが、当時の郷里は本当に貧しい山村でした。地元の人たちは戦争に勝てば豊かになれると盲信していた。「おめえが行って頑張ってくれ」などと励まされるとグッときましてね。
 どこに行きたいか希望赴任先を訊かれたときには、郷土の期待に応えたいと、思わず「南方第一線を希望します」と口走っていました。戦争は良くないと頭ではわかっているのに、どこか英雄になった気分だった。
 でもそれも最初の3ヵ月間だけでした。
 トラック島と日本の間に位置するサイパンやグアム、テニアンが陥落したのです。補給ルートを断たれ、前線で孤立してしまったため、武器や食糧などをすべて自らの手で調達しなければならなくなった。そんなある日、いまも脳裏に焼き付いて離れない事故が起きました。
 海軍施設部は土木作業に従事する工員が主力です。その中に陸軍の経験者がいて、手作り手榴弾の実験を志願してやってくれたのですが、なんと実験中に手榴弾が暴発したのです。
 背中の肉がえぐり取られ、右腕は吹き飛ばされていた。工員のそばで指揮をしてくれていた落下傘部隊の少尉も即死です。すぐに皆で工員の遺体を担いで、わっしょいわっしょいと声をかけながら2㎞先にあった野戦病院めざして走り出しました。
 あれはもう……本能ですね。
 死んでいるのはわかっている。でも、仲間を見捨てることはできない。人間っていいものだ、と遺体を運びながら、涙が出ました。英雄気取りだった自分はなんて甘い人間なんだと、己の愚かさを呪いました。
死と隣りあわせの毎日
 食糧調達もうまくいきませんでした。
 島でサツマイモの栽培を始めたのですが、害虫が出て、ほぼ全滅してしまったのです。虫でもコウモリでも、何でも食べました。空腹に耐えかねて、拾い食いをしたり、南洋ホウレンソウと呼んでいた草を海水で煮て食べたり。当然、腹を下します。弱っているところに下痢でさらに体力を消耗して、次々と仲間が死んでいった。屈強でごつかった荒くれ者たちが、最後はやせ細り、仏さんのようなきれいな顔で冷たくなっていく。たまらなかったですね。
 私自身も、命の危機はありました。
 サツマイモをポンポン船で運んでいるときにグラマン(米軍の戦闘機)に見つかり、機銃掃射を浴びたのです。「戦闘機に見つかったら、ジッとして動くな。動くと認識されやすい」という教官の教えを守ったおかげで私は助かったのですが、横にいた仲間は恐怖のあまり大きく動いてしまい、撃たれてしまった。
 戦争は人間を醜悪な生き物に変えます。
 私自身、餓死者を見送るたびにかわいそうだとは思いながらも、心のどこかで「あと何人減ると食糧が足りるのか」と計算していました。
 こんなこともありました。
 艦隊司令部は米軍による爆撃がいよいよ激しくなってきたころ、慰安婦を含む在島の女性を病院船に乗せて日本に帰国させました。電話交換手だった女性たちも一緒に帰しました。すると、工員たちは現地のカナカ族の女性に夜這(よば)いをかけるようになった。
 そして、夜這いをかけた工員が現地の男性にナタで切り殺される事件が起きると同時に、今度は工員たちの間に男色が蔓延(まんえん)していきました。
 ときには、若い男の奪い合いで痴話げんかのような殺人事件も起こりました。いずれも戦争がなければありえなかった事件です。
〈現在の国会議員のうち、安倍晋三首相(60)をはじめ9割以上が戦後生まれである。戦争の現実を知らない議員が国会で繰り広げる安保法制の議論に、金子氏は警鐘を鳴らす。〉
 どんなに勇ましいことを言っても、戦場にあるのは、むごたらしい殺戮(さつりく)死だけ。戦争は悪でしかないのです。
 昭和初期の女性は非常におとなしかった。わが子や夫の命を守りたいという気持ちをこめて千人針(せんにんばり)を縫うことはあっても、社会状況をとらえて政府に意見するなんてことはなかった。受け身でした。
 ところが、今回は違う。安保法案反対のデモには女性がたくさん参加しているでしょう。強くなった女性の姿に一筋の光明を見る思いです。戦争のような大きな流れに飲み込まれると、個人の力で抗(あらが)うことはできなくなる。一度戦争を始めたら簡単には引き返せません。今こそ大事な時だということを、多くの人に考えてほしいと思うのです。
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昭和12年の防空法施行を受け、全国各地で防空訓練が行われた。写真は愛知県豊橋市の訓練に参加した市民たち
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都内各所にこんな看板が立っており、当時は「戦争を後方で支える銃後の風景のひとつ」と紹介されていた
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広島で行われた徴兵検査。会場横に座っている婦人は、軍から特別に見学を許可された母親たち
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かねこ・とうた/’19年、埼玉県生まれ。現代俳句協会名誉会長。戦後、反戦に生きると決意。デモ隊が持つ「アベ政治を許さない」のプラカードは氏の揮毫
(取材・文/増田明代)
PHOTO:鬼怒川 毅(金子氏)
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