やっと辞任!舛添が封印したホテル三日月 密会の真相

10代から競馬三昧、東大舛添ゼミのOGと出版社設立。
本当にこの人物と「政治の機微」を話していたのか
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6月13日の集中審議での舛添氏。「リオで東京が笑いものになる」「9月まで猶予を」と、辞表提出前夜までオリンピックへの執着を見せていた
 ゴネにゴネてようやく――。舛添要一東京都知事(67)は15日、ついに辞職願を提出した。だがその前日まで見苦しいほど〝延命〟を図ってもがいていた。
「私だって、本当はいますぐ辞めたいんです。子どもも殺人予告を受けている。でも、知事選、都議選やったら100億円かかります。都政を混乱させるわけにはいかないんです」
 涙を拭いながら「続投」を訴えたが、そこにいた都議たちの心には届かなかった。
「木更津会議」は虚言!?
 高額出張旅費、公用車での別荘通い、政治資金を使った家族旅行や食費の支出が発覚。批判に対して「法的問題はない」の一点張りで逃げようとした態度には呆れるばかりだが、舛添氏の金銭感覚には以前から疑問の声があった。
「舛添氏の朝食勉強会に出たことがあるが、ホテルのウェイターに『この前よりクロワッサンが小さい』と舛添氏がしきりに問いつめていた。最初は周囲も冗談だと思ってニヤニヤしながら聞いていたが、あまりの執拗さ、真剣さに驚いて場が静まり返った」(全国紙経済部記者)
「国会議員時代、国政調査権を使って国会図書館から大量に資料を持ってこさせ、それを切り貼りして何冊も著書を出してカネ儲けしていた。そういう姑息さに辟易した人は多い」(元側近)
 一連の舛添氏の疑惑のなかでもとくに問題になったのが、’13年、’14年の正月、木更津の「ホテル三日月」での計約37万円の宿泊費を政治資金に計上していた件。舛添氏がこのとき面会したと主張する知人と目されているのが、東京・港区で出版社を経営していたA氏である。舛添氏の言う「元新聞記者で出版社社長」に該当するA氏は、競馬一筋の人物だった。
「スポーツ紙の記者時代から、明け方まで仕事をして家には帰らず、そのまま仕事に行くような人。本当に競馬が好きな敏腕記者で、ノリがよく、競馬愛のある人でした」(A氏の知人)
 A氏は’45年生まれ。実家は横浜の質屋だったが、丁稚奉公で新宿に通ううち、場外馬券場で競馬にハマったという筋金入りで、競馬専門誌を経て、スポーツ紙の記者、競馬雑誌の編集長などを務めていた。舛添氏はこのころ、A氏の雑誌でコラムを連載している。
 A氏は’03年に独立し出版社を興したが、取締役となったのが翻訳会社社長のB女史。実はB女史は東大大学院で舛添ゼミ(当時助教授)のゼミ生だった。
 B女史は、舛添氏の政治資金管理団体の会計責任者も務めており、団体の「主たる事務所」として登録されているのはB女史の翻訳会社と同じ住所だ。
「Bさんは官公庁などを顧客とする翻訳会社を’86年に設立。舛添氏のタニマチ的存在でした。ゼミのOB会にも、よく顔を出していました」(舛添氏の知人)
 しかし昨年11月、A氏がクモ膜下出血で急逝した。
「葬儀には舛添さんも来ていたが、パッと来てパッと帰ってしまった。Aさんから政治の話なんて一切聞いたことがない。葬儀のとき、息子さんが『ここ最近の正月は川崎で一緒に過ごしていました』と話していました。ホテル三日月に行くなんてあり得ない。舛添氏がAさんの名前を明かせなかったのは、ウソがバレるからでしょう」(前出・A氏の知人)
 死人に口なし――。舛添氏は、急逝したA氏の存在を、言い逃れの道具に使ったのではないか。ここでも問われているのは舛添氏の人間性だ。
「猪瀬さんの借入金に比べれば金額も知れていて、法的に問題もない。都議会自民党の理解もあり、舛添氏は9月までは続投のつもりだった」(自民党幹部)
 しかし、舛添氏が繰り返した言い逃れは、かえって都民の怒りを買った。これほど往生際の悪い政治家は前代未聞だ。政治家以前に、人間としての資質を疑われての辞任劇となった。
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舛添氏が正月に家族で宿泊した「ホテル三日月」
PHOTO:鬼怒川 毅(舛添氏) 會田 園(ホテル)
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