福島避難住民の叫び「ふるさとを返してください」

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佐藤強さんはいまも飯舘村に住み、農作業を黙々と続ける。昨年、ヒサノ夫人が亡くなり、現在は一人暮らし
Photo:橋本 昇
 福島県の原発事故により、現在も避難生活を送る人たちはどんな気持ちで日々過ごしているのか。本誌は訪ね歩いた。
 放射線量の数値が高い飯舘村のなかで、「帰還困難区域」に指定されているのが、長泥地区だ。牛の生産農家を営んでいた長泥区長・鴫原良友さん(63)は現在、村からおよそ30㎞離れた福島市内の公務員宿舎で家族と避難生活を送っている。
「復興……見えねえな。たとえ戻れるようになったって、皆、戻らないよ。牧場はもうできないし、戻って何すんのって話ですよ。自然災害、たとえば津波だったら2〜3年で帰れたかもしれないけど、放射能はわかんないもんな。何もかもが初めてで例がない。だから行政は責めらんねえよな。でも行政は判断するしかねえんだって。帰村するしないは一個人が決められないよ。原発を建てておいて、あとはどうとでもなれだもんな」
 鴫原さんは想いを吐き出す。
「関東の人たちはテレビを何台も持っていたり、ネオンはつけっぱなしだったり……東電の味方するわけではないけれど、震災直後の計画停電、あれをまたやったほうがいいと思うな。たまに停電して、皆で原発のことを考えたほうがいい」
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飯舘村長泥地区の区長・鴫原良友さんは福島市内の公務員宿舎で生活を送る
Photo:橋本 昇
 高橋みほりさん(32)は飯舘村唯一の書店「ほんの森いいたて」に勤務していた。現在は夫と小学生の子供二人とともに福島市内のアパートに住み、仮設住宅の直売所に勤務している。
「市内で新しい家を見つけて引っ越す予定です。やはり、子供たちが大きくなるまでは放射能の影響がわからないですから。私が住んでいたのは、比較的数値が低い地区でしたが、除染が終わってからも、また数値が戻っているなんていう話も聞きます。村にトンボや鳥がいなくなったという話もあります。飯舘に帰るとしても、まだ先でしょうね。再稼働はやはりイヤですね。でも最近では『汚染水漏れ』という言葉が新聞の一面にあっても、なんとも感じない自分になっていて……いけないなと思います」
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飯舘村の書店員だった高橋みほりさん。手に持つのは震災直後の家族写真だ
Photo:橋本 昇
 いまも飯舘村に住んでいる人もいる。佐藤強さん(86)。彼は震災直後から妻・ヒサノさんと村にとどまっていた。昨年3月にヒサノさんが他界し、地区内に暮らしているのは強さんだけになった。
「オラ一人になって、役場から人が4〜5回も来た。避難しろって。でも、オラは80を過ぎてっから、避難なんかはしない。目に見えねえ放射能は怖くないからな。仮設住宅など入っていられるもんでねえ。生きた喜びもねえわ。ああいう狭いところで亡くなって、家に戻れないまま火葬されてもなぁ。家の裏山でマツタケを毎年とってんだ。誰もとらないから、ナンボでもとれるし、食べられる。春からはイモを畑で作ろうと思ってんだ」
 記者が訪ねたときも、佐藤さんは鍬を持ち、農作業をしていた。彼は不平も言わず、淡々と毎日を送っている。

東京ではすることがない
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東京で避難生活中の豊島力さんは、子供の頃に習ったわらじ作りをして気持ちを落ち着かせている
Photo:船元康子
 東京都江東区・東雲(しののめ)にある36階建ての国家公務員宿舎。ここは’11年4月から福島の被災者受け入れを始め、今も1000人以上の避難住民が暮らしている。
 週に2回、火曜と木曜に、有志が1階の集会場に集まり交流している。3月4日は男女約20人が集まった。豊島力(ちから)さん(78)は浪江町加倉地区から避難してきた。かつては農家だったが、いまは年金と東電からの賠償金で妻と生活している。
「月に1度は片道で6時間かけて浪江に帰るよ。でも、午前9時から夕方4時までしかいられない。最初に帰ったときは、先祖代々の畑に草が伸びきっていて、もうだめだと思った。気がついたら涙が出ていた。情けなくて。うちの里イモは農家の仲間内でも評判がよかったんだよ。粒も大きくて、母親から習った自慢のイモだったんだ……。帰っても家のまわりを掃除して、草むしりして、墓参りして。それくらいのことしかできない」
 豊島さんは東京での生活を「ただただ住んでいるだけ」と語る。
「ここにいてもすることがない。農作物は作れないし、畑の手入れもできない。不便はないよ。でも東京は野菜の値段が高い。自分で作った野菜が一番うまい」
 東京都は福島からの避難者の受け入れ期間を’15年3月末までとしている。
「そう言われても……出ていける人は行くだろうし。東京オリンピックもいいけど、まず福島を何とかしてからにしてほしい。一番の願いは家に帰ることですよ」
 同じく公務員宿舎に暮らす小野田トキ子さん(78)。彼女は浪江町苅宿(かりやど)地区から夫と避難してきた。夫は避難2ヵ月目に初期のアルツハイマーと診断された。
「主人は『苅宿に帰りたい』と言っていました。『死んだら、苅宿で葬式を出してくれ』とも。生まれ育った町だから、私たちのお墓は苅宿と決めています」
 彼女は「自宅からこれだけは持ってきたのよ」と花瓶を見せながら言う。
「150坪の一軒家で、庭がとてもキレイだった。サツキ、グミ、山ツツジなんかを植えて、そこにシジュウカラがやってきて……楽しい日々でしたね。
 テレビで国会中継を見ていると原発を再稼働するという話になっています。もしもう一度事故が起こったら誰が責任をとるんでしょうか。被害者を増やしてほしくない。被災者は惨めな思いをし、たびたび心ない言葉をかけられています。私も『こんな素敵なところに住めていいわね』と被災していない人に2回も言われました。夫は製本会社に勤めて、マジメに働いて、自分たちの家を建てた。それをすべて奪われた。大切にしていた草木も汚染されてしまった。今の部屋のベランダからは東京タワーが見えます。でも思い返すのは苅宿の庭なんです」
 福島避難住民の叫び。これを無視しての原発再稼働などありえない。
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小野田トキ子さんは東雲の公務員住宅1LDKで夫と暮らす。自宅から持ってきたのは花瓶だけだという
Photo:船元康子
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東雲で行われている福島の避難住民による交流会。大きなテーブルでお茶をしながら、手芸などを楽しむ
Photo:船元康子
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